慶応2~昭和12(1866~1937
茶業技術専門家
著書に
・大日本産業事蹟 上・下
・茶樹栽培法
・茶業講義録
などがある。
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慶応2~昭和12(1866~1937
茶業技術専門家
著書に
・大日本産業事蹟 上・下
・茶樹栽培法
・茶業講義録
などがある。
弘化元~昭和8(1844~1933)
明治・大正の実業家
伊勢国飯高郡谷野村(現三重県飯高町)に生まれる。
明治元年(1868)、19歳で横浜に出て茶貿易に従事する。
明治五年 (1872)、輸出増加により粗悪な茶が増加したために、製茶改良会社を創設し、輸出製茶の品質向上に尽くす。
明治17年(1884)全国茶業組合を結成する。全国茶業組合中央会議所会頭として、 全国茶業界の指導者の地位にあり、アメリカの製茶関税撤廃などを実現する。
第七十四国立銀行頭取、横浜市会議長、横浜商業会議所会頭等を歴任。
明治40年 (1907)貴族院議員となり、勲三等、瑞宝章、大正4年正五位、大正12年には紺綬褒章を受けた。
文政11~明治17(1828~1884)
茶貿易商
日本茶輸出貿易の先駆者。
長崎市油屋町に生まれる。大浦家は長崎でも屈指の油問屋「大浦屋」を営んでいた。
嘉永6年(1853年)長崎出島在留のオランダ人テキストルに佐賀県嬉野産の茶見本を託して、イギリス・アメリカ・アラビアの三国に送った。3年後の安政3年、イギリス人のオルトが、その見本茶を持って長崎に現れ、大量の注文をした。嬉野だけでは足りず、九州各地から集め、オルトに売り渡した。
その後も外商と取引を続けていった。
大福茶(おうぶくちゃ)と言う。ほかにも、「皇服茶(おうぶくちゃ)」、「王服茶(おうぶくちゃ)とも言います。
関西地区では、1月1日に、汲んだ水を沸かして入れたお茶に、梅干しや昆布を入れた、「大福茶」を飲みます。
一年の無病息災を願って飲まれています。
いわれは、951年春、京都に疫病が流行り、空也上人(くうやしょうにん:903~972年)が、お茶に梅干しと昆布を入れて観音様に供えました。
同じものを、時の村上天皇(在位946~967年)も飲み、病人たちにも振る舞い、念仏を唱えたところ、疫病が収まり始めました。
天皇が飲んだことから、皇福茶・王服茶・・・と言われ、庶民に広まり、「大福茶」と呼ばれるようになりました。
空也上人は、京都の庶民に念仏を広めたお坊さんです。
ゆかりの寺、六波羅密寺(ろくはらみつじ:京都市)では、現在でも、正月3日間に、参拝者にふるまわっています。
鎌倉時代の仏教僧。
臨済宗、東福寺派の祖。1202~80年。
駿河の国(静岡県)生まれ。
5歳で久能山に入り、三井寺で剃髪、東大寺で受戒した。
1235年入宋し、径山の無準師範に教えを受け、印可されて、1241年帰朝。
横岳山に崇福寺、博多に承天寺、肥前に水上寺を開いた。
多くの墨蹟が現存する。
宋から茶の木を持ち帰り、駿河足久保(静岡市)に植えたと伝わるが、後世の伝説で定かではない。
栄西(1141~1215年)は日本のお茶の発展に大きく貢献した重要な人物です。
臨済宗の開祖で、鎌倉時代初期の1191年、二度目の入宋(1回目1167年、2回目1187年)から帰朝し、京都建仁寺の開山となりました。
その際、中国の宋から当時中国のお茶の飲み方だった『抹茶法~まっちゃほう~』を伝え、茶の種子を持ち帰り、各地に蒔いて日本に茶を広める原点とした、と言われています。
各地とは、九州背振山、洛北高山寺。
当時、明恵上人(みょうえしょうにん)に、茶の実を与えて、茶の栽培をさせた話は有名で、その時から日本茶の栽培が始まるという説もありますが、この頃には、すでに、茶が作られていた言われています。
栄西は、帰朝後、本格的な茶の効用から蒸し製法の碾茶などについて記した『喫茶養生記』(1121)を1214年将軍、源実朝に献上。(『吾妻鏡』)
この書が、日本最初の茶書であり、その後の喫茶の普及に大きな役割を果たしました。
「茶は養生の仙薬にして、延命の妙薬なり、人これを用いれば其人長命なり」のくだりは有名。
栄西は、日本茶の「茶祖」とも言われ、大茶産地島田市の牧之原公園には大きな像が立っています。
【エピソード】
実朝に茶を献上した際、実朝は二日酔いで気分が悪かったのですが、栄西が献上したお茶を飲んだところ、一気に治り、実朝は大いに喜んだ・・・というお茶の持つ、魅力や野草茶として効能を実証した話が残っています。
昔、茶は、薬として飲まれていた・・・というのが頷けますね。
日本で、お茶を飲んだという、歴史上の最初の記録は、『日本後記~にほんこうき~』という歴史書にあります。
815年4月22日、近江(滋賀県)の梵尺寺(ぼんしゃくじ)で、永忠(えいちゅう、743~816年)という偉いお坊さんが、嵯峨天皇(在位809~823年)に茶を煎じて献上した、と記されています。
中国のお茶についての確実な記録は、紀元前59年前漢時代)の、王襃(おうほう)という人の『僮約~どうやく~』の一文や、中国最古の農書と言われる『斉民要術~さいみんようじゅつ~』(530~550)にも茶樹についての記載がある。
それから、約800年経った、760年頃(唐の時代)に、世界最古のお茶の専門書『茶経~ちゃきょう~』が、陸羽(りくう)(733?~804年)によって、著された。
当時の産地・加工法・喫茶法が書かれている。
「茶は南方の嘉木にして・・・」で始まるくだりは有名。
お茶は、中国から伝わってきたもので、最澄や空海などの遣唐使が伝えたと言われています。
平安時代、初期の頃、主に9世紀前半の嵯峨天皇の時代に、お茶にかんする記録が書物の中に残っているため、この時代が伝播の始まりだと言われています。
今から約5000年前、中国の伝説に登場する神農帝は、人が食べられる野草を試食し、
一日に72種類もの毒にあたり、そのたびに、茶の葉を噛んでその毒を消した・・・・と伝えられています。
これは、人類がお茶に親しむきっかけだったと言われています。
また、お茶が「薬」として飲まれるようになった原点でもあります。