笑顔配達人☆和茶倶楽部なごみです。
先日の宇治散歩で、どうしも寄りたい場所がありました。
それは、「万福寺」・・・黄檗宗の総本山です。
島田市においては、あの幽霊の掛け軸で有名な「白岩寺」さんが黄檗宗のようでございます。
隠元禅師と言えば、黄檗宗の開祖という顔以外に、中国から日本に、いんげん豆や中国風の禅、孟宗竹やレンコンなどの野菜などをもたらしたことは広く知られています。
他にも、有名なのは、「普茶料理」・・・普段使いの料理で皆でお茶するお料理という意味?とお聞きしておりますが、こちらももちろん私のお目当てではありました。なんと言っても、「茶」と名前がついている!
更に、この隠元禅師は、明の時代の「唐茶」をもたらした方として、茶業界では知られています。
それまで、茶の伝来は、遣唐使である高僧(空海や最澄、永忠など)が日本に種を持ち帰ったのが初めとされています。
当時は、また、皇帝や高級官僚、高僧などしか、食したり、飲んだりできなかった、茶!
中国でも、餠茶と言う固形の茶を作り、保存や運搬に適した形にして、割ったり挽いたりして飲食されていました。
ところが、明の時代になり、皇帝はこの固形茶を廃止し、散茶(今の茶葉の形で固めていないもの)を推奨。
そして、隠元禅師が、1650年代にこの明時代の散茶(固めていないお茶)を、日本にもたらし、煎茶というお湯を注ぐだけの簡単な喫茶法が広まって行きます。
やがて、江戸時代中期での伸煎茶(by永谷宗円・・・永谷園の先祖)の基礎を築くことになります。
当時、隠元さんが伝えた茶の製法は、唐茶と言われ、現在の日本の大半を占める、蒸し製のお茶ではなく、釜で炒って作る釜炒り(唐茶)のものでした。
この当時のお茶は、緑ではなく、茶色だったとのことです。
それまでの、固形のお茶と違い、簡単に淹れられる、喫茶法は、急速に普及して行きました。
この隠元の弟子に当たる高遊外(こうゆうがい=売茶翁ばいさおう:煎茶の祖)は、今の九州嬉野に、この製法を伝えたと言われています。
今でも、嬉野には、この釜で炒るお茶の製法が残っています。
萬福寺は、今でも中国の禅を引継ぎ、御経なども中国語、ならわしなども、中国の黄檗山萬福寺に習い、中国風で行われているようです。
⇈20代位までは、中国からのお坊さんでした。